過ぎ去るものの観測【ある戯曲と、迷走するS10からの二つの例外】

ハヤカワ演劇文庫の中の1冊、マイケル・フレインの戯曲「コペンハーゲン」を読みました。第二次世界大戦終盤の原爆開発を巡る物理学者師弟の攻防、日本でも2001年に初公演されて評判だったそうで、不確定性原理のハイゼンベルグを演じたのが、S10-18「守るべきもの」泊真一役で目にして以来私がヘンに気になる今井朋彦氏だと知ったからという至って浅はかな個人的購読動機(・・・)なのですが・・・この本自体がとても面白かった!
「どうして彼はコペンハーゲンに来たの?」ニルス・ボーアとマルグレーテの夫妻が振り返りながら語らうくだりから始まる、ボーアのかつての愛弟子であり、やがて敵国の人間となったハイゼンベルグの、戦時下である1941年の謎の訪問・・・マルグレーテは腹を立てているようで、ボーアは「彼自身、分かっていたかどうか」という。ハイゼンベルグもまた回想する、コペンハーゲン行きについては誰も理解していないと・・・「説明すればするほど曖昧に---不確定性が深まっていった。だが、私としても、もう一度試せるならありがたい。今ではもう、みんな死んだのだから。誰も傷つかないし、誰も裏切ることはない」。
窮状にあるかつての師を、国の力を利用してでも助けたかったのか?敵国の原爆開発状況を探ろうとするスパイ行為だったのか?これから自分がしてしまうかも知れないことへの赦免と理解を請いたかったのか?それとも・・・たった3人の登場人物の誰もが既にこの世にいないことを前提に(!)あたかも実験のように再現されようとする、ハイゼンベルグが、ボーアが、あのとき何を話して、何を話さなかったのか、何を求めて、何を拒絶しようとしていたのかの謎・・・ボーアとハイゼンベルグの対話が熱を帯びるにつれ、核物理学の用語や同時代に活躍していた物理学者たちの名前が飛び交い(分かったのはシュレディンガーの他にはジョージ・ガモフだけでした・・・「不思議宇宙のトムキンス」作者としての!)、複雑な歴史的背景として考慮しなければならない戦争の影にあっという間に埋め尽くされてきて焦るのですが、それでも「マルグレーテのために」「普通の言葉で」自分たちに何があったかを“互いに”明らかにしようとする彼らの対峙に否応なく引き込まれていきます。
彼ら自身の人生とその中で見いだされた物理学の理論が重ね合わせられていく普遍的な希求、国を愛する気持ちと倫理観、科学の探求心との間でせめぎ合う駆け引き。“国民のための”原子炉開発がプルトニウム生産という国家の見えない悪意へと繋がらない保障はないこと、一握りの科学者たちに国家の原爆開発の意志を食い止める手だてはあったのか?
ボーアとハイゼンベルグを結びつける父と息子のような深い愛情と反発心、「あなたたち二人は、離れている方がずっと上手くいくのよ」と指摘するマルグレーテ・・・冒頭、ボーア夫妻がハイゼンベルグを思い出す部分(ボーア「あのキラキラと光る鋭い目。」マルグレーテ「光りすぎてて、鋭すぎる目。」)からして実に、今井氏が扮している様子を見てみたかったと内心眩暈がするわけですが(汗)、物語中必死に弁明し、すがろうとし、反抗し、理解を請いながら自らも混乱しているハイゼンベルグは天才ならではの苦悩に満ちながらも実は誰にもどこか気持ちが分かるような、人間的な描かれ方・・・(先述したように時折難しい単語が続出して焦るのですが、セリフそのものはもってまわったような気取りは全くなく、実直なのです)
私は演劇というものに全く疎く(ハヤカワといえばSF・ミステリのイメージばかりで「演劇文庫」なるものが出ていたなどとは初めて知りました)思いがけず未知の面白い本を手にすることが出来たな~という思いと同時に、さ・・・再演などされたら(2007年にあったそうですが)もしやうっかり必死に見に行ってしまいそうだと思ってしまう自分にも驚きつつ・・・物語の最後の最後の部分、諸行無常とも、一人の人間がその人生の内に知覚できるスパンを越えた部分にようやく見いだされる最終的な希望ともとれるハイゼンベルグのモノローグが、どんな風に語られるのかなと、しばらく考え込んでしまいました。

ハイゼンベルグは原爆開発を“阻止”したのか、“出来なかった”のか?ということについてのちの人々が調査し、解釈したさまざまな考え方が集約されている作者あとがきもとても興味深く、相棒者的な言葉で賞賛するならば(?;)名探偵・杉下右京がこのあとがき部分を理路整然と、しかし真実追究への思い入れたっぷりのいつものあの調子で我々に披露してくれる様子を思い浮かべても違和感はないと思ってしまうのですが・・・
そしてふと思い出すのは、(そもそもこの「コペンハーゲン」を手にしようと思った動機であるところの)泊・・・もとい「相棒」S10-18「守るべきもの」の面白さと詰めの甘さ・・・もし、ハセベ氏特有の着想に、櫻井氏的な綿密な調査、取材力の裏付けがあったなら?長谷部監督がご存命だったなら?描写の比重がもう少しでも泊に割かれていたなら?物語中に目を向けるなら、かつて暴力団と関連のある組織から援助を受けてしまったことを泊は本当に知らなかったのか?(劇中では「距離を置こうと思った」とだけ述べている)知らなかったのだとしたら、折角逃れたそこから、別の悪意のなかに何故自ら飛び込んでしまったのか?誰も信じられなくなっていた=誰にも自らの真実を打ち明けられなくなっていた泊が、土方との間に直観的にみた世界は何だったのか?
突き詰められたならさぞ大化けした1篇であったろうにと、(これまでのシーズンに対する)S9での幾つかの兆候~S10そのもののパワーダウンと安易な方角への流れへの危惧があるのですが、他方、新たに気づいた謎?は、何故泊が、よりによって今井氏という、あまりに印象深い物質的存在をもって表現されることになったのかということ・・・
ハセベ氏は「書くときに俳優さんをイメージすることはない」そうですが(米沢映画関連のインタビュー記事より)、ハセベ氏やスタッフの側にはたして戯曲「コペンハーゲン」は頭にあったのか、なかったのか?(キャラクターとしては、どこかフワフワとした泊とシャープなハイゼンベルグ、全く異なるタイプではあるのですが)それとも、台本の段階では平板な輪郭であった(見ようによっては単に流されるだけの、情けない男に過ぎないかも知れない)泊というキャラクターに、如何なる運命の幸運か今井氏が入ったことによってこそ、あの何とも言えない・・・あれこれ思いを巡らさずにいられない複雑な造形が生まれたのか?
「相棒」一視聴者に過ぎない身にはただ想像するしかないのですが、1冊の本と1篇のドラマでこうもトリップできる自分はもしかすると(もしかしなくても)相当シアワセな部類ではと若干呆れつつ、例えば、“真実は心の中に”という「相棒」の有するある側面(S2「殺してくれとアイツは言った」「ピルイーター」、S7「希望の終盤」等)とも、同胞を愛する心やそのための科学技術が、権力(国家、経済)と時に不本意な形で関わり合ってしまうのは決して他人事ではないと指摘する幾つかの話(S6「正義の翼」S10「あすなろの唄」等)とも、どこか通ずる要素があるのではないか・・・という意味で、相棒ファンとしても色々と考えさせられた「コペンハーゲン」でした。

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続・映画の休息

世の中が(相棒者的に)「相棒-劇場版-」及び「劇場版II」のTV放映に沸いていた頃、私はひっそりと「最後の砦」(S7)「神の憂鬱」(S8)を見返していたのでした。「最後の砦」は考えをまとめよう、きちんと書こうと思いながら考えるほどに深みにはまってしまい、振り返れば「殺人ヒーター」や「裏切者」「警官殺し」へ、先へ進もうとすれば「暴発」へも立ち返らざるを得なくなってしまうという大変な作品です・・・でも、いつか書きたいです、いつか・・・
イエ、GW中の劇場版連続放映に話を戻しますと、どのような放映ぶりかは気になったので一応各々録画はしたのですが、長い枠が確保されていた割には、「相棒-劇場版-」初TV放映時(2009年)に冒頭に付与されたおまけ新撮(=事件の詳細を知ろうと周囲に聞き回る神戸)は再現されず、今回がTV初放映である「相棒-劇場版II-」はといえば壮絶な最期を遂げた小野田に思いを馳せるべきエンドロールの止め絵が神戸ことミッチー氏お疲れさま映像(という現実直近側の事情)にのきなみ差しかわっているという、それぞれよく解らない引き算・・・
S7最終話からみっしりご覧ではない神戸君ファンの方には、神戸卒業となってしまった今だからこそ、S8からの本格参入を控えていた時期の新相棒・神戸が東京ビッグシティマラソン襲撃事件の全容を知ろうとロンドンの右京に電話をかけたり、特命部屋中に資料を広げていたりする様子を見て貰いたかったかな?という気持ちが個人的にしますし(なお、1作目TV初放映版は映画終了後にも僅かな付け足しパートがあって米沢ファンとしては面白いのですが、こちらは当時公開間際であった米沢映画のCMに接続するので再現されなくてもやむなしではあります^^;)、今回TV初登場のIIの余韻無視に関してはとりもなおさず、“エンドロールで席を立つな(そこまでが映画だ)”としばしば言われる苦言をまさにTV的に手っ取り早く処理してしまったのだなあと言う残念さ・・・和泉監督は納得していたのかなとギモンに思います・・・
劇場公開>ソフト化が代金を回収できる商品としての「映画作品」の主な流れで、その後のTV放映は広告宣伝(何か別の新作のキャンペーン)の一種なのだろうな~という事情は解らないでもないにせよ、作品性を削いでまでゴーカなCMや楽屋裏レポートに“加工”してしまう必要があるのかと・・・こと、この「相棒-劇場版II-」に関しては、「劇場公開用」と「エクステンデット版」が存在してしまう(<こうした方式は近年では珍しくないことのようなのですが、少なくともこの作品に関しては劇場公開用がダイジェスト的な様相を呈してしまっている上、更にその時空の狭間(?)にTVシリーズ側の「予兆」が存在してしまう)時点で一観客としてはギモンを呈せざるを得ない・・・世間の評価、相棒ファンの評価はどうであれ、私個人の中では、劇場公開>ソフト化>TV放映の全過程に渡って納得の行きづらい1作となってしまったのがなんとも心苦しいところです。

まあ・・・何が納得が行かないかと言って、小野田の死、その元凶となった行動の描き方そのものに未だに納得が行かない私は劇場版IIについて口を開けばグチになってしまうのではと、もうあまり語らない方がいいのではとも思ってしまうのですが(大河内の扱いについても「最後の砦」「神の憂鬱」等と見比べてしまうとガクゼンと落胆します(苦笑))・・・だからといって悪い作品とは思いませんし、「頑張った作品」ではあるかと思うのですが、ただ、私の中では、話題性に依存してしまった作品ではなかったかな、という感覚も強いです。ここへきての劇場版2作の一挙放映が、「相棒」とスタッフの多くが重なる映画「HOME 愛しの座敷わらし」のためのキャンペーンを兼ねていたとして、こちらはまたこちらで集客のためにとにかく話題だ、といった方針とはテーマ的に相容れない地味な良作であっただけに、むしろ宣伝抜きでもちょっと気になった方はご覧になってみるといいのではないかしら、という方針くらいが良かったのではという気もいたしましたね・・・
GW中のその他の過ごし方としては、ザ・タイガースのコンサートが放映されているのに後で気づいたり(少し見ましたが、ベーシスト・岸部一徳が復活するならば是非ともPYGをと強烈に念ずる者がここに一人・・・)、泊真一の中の人、今井朋彦氏の声の仕事(海外の児童向けやちょっと変わったドキュメンタリーを放映する「地球ドラマチック」、たまに観ていましたが、よもや模型鉄の回(<違います・・・イヤそう違ってもいない)に登場なさるとは(脂汗))に無駄にドギマギしたりしておりました。う、うーん・・・

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映画の休息

「HOME 愛しの座敷わらし」を観てきました。水谷豊氏主演、和泉聖治監督作品という相棒者視点のみで行くのもなぁと思っていたのですが、ふと、“叙情を丁寧に描く和泉監督の画面”というのはかつて「相棒」には確かに存在していたと思い出してしまったのですね・・・“映画的”といえば「サザンカの咲く頃」のようなダイナミックなものを思い浮かべますが、例えば「白い罠/雪原の殺意」など、冬の北海道の風景、終盤の漁港~雪景色の中を行く列車もまたもはや映画であると思えるわけです・・・近所のショッピングセンターに入っている映画館が割り引きデーだったことや、何となく心洗われたい(・・・)気分だったことも手伝って観に行ってきました。
感想としては率直に、ああ、観て良かったなと・・・のどかな気分を味わえればいいかというくらいの気持ちだったがそれだけではない、というと語弊があるのですが、突然の田舎暮らしに狼狽する高橋一家、それぞれが内に抱える心配事(東京で裏表のある人間関係に悩んでいたとみられる長女・梓美、ぜんそくの不安がある息子・智也、老いた自分が親類間でお荷物になりつつあることを内心気にする母・澄代、姑とうまくやっていこうと頑張りながら主婦業に少し息切れ気味の妻・史子、そして水谷氏扮する主人公・晃一自身もまた左遷のようなかたちで開発部を外され、家族を思いながらも家族の中で空回り・・・)が物語の割と早期に、ことさら強調されたり説明されたりすることもなく、しかし決してステロタイプに軽く処理されることもなく、観るものがフッと心を重ねられるようなかたちで描かれていきます。
和泉監督や会田氏は徹底して気配を消している感じで、ある時は田舎の人間関係がユーモラスに(相棒者的には、ミス・グリーンの家に「殺しのカクテル」のアキコさんや「還流」の京極が寄り集いてお茶っこ飲んでるという奇妙にゴーカな絵柄?!さらに晃一の元部下として芹沢こと山中崇史氏がチラッと、終盤には社長役で宇津井健氏も登場するのがなんともはや)、またある時は豊かな自然が美しく描かれるのを観客として無心に楽しめるわけですが、“座敷わらしって何?”というところから一家が改めて顔突き合わせて話し合うことになり・・・
弟はフシギな存在への興味と自分より幼いものへの純粋な思いやり、姉にとっては新しいクラスメイトと関わる(地元の文化を知る)ことになるきっかけ、子どもの幻影に戦争中に里子に出されたまま死んだ幼い弟への思い残しをみる老母、息切れ気味の自分のSOSとして感じ取る妻、そして晃一には何も見えないし、ストレスによる集団妄想だと取り合おうとしない・・・のだが、“家に福をもたらす、去ると家運が傾く”と聞いて「えっ」と身を乗り出したり、何とかその姿を見たいと家の中にビデオカメラをセットしようとしたり、心の綺麗な人間にしか見えないと聞いて「そんなに汚れてないと思うんだけどな」と呟いてみたりする様子が愛情深く描かれる・・・
田舎暮らしにも馴染みはじめ、何かが変わり始めた気がする矢先、ふたたび突然の晃一の転勤話・・・東京本社の元のプロジェクトを再開できる?という朗報に思えたものも実は上司が自らの判断ミスを取り繕うとしていることが暗に描かれるなか、コスト削減のため当初契約を予定していた農家は切ると告げる上司に、これまで“波風立てず、周囲と仲良く”という人生を送ってきた晃一が思わず抵抗の意志を表明する---強圧的な上司相手に脂汗の笑顔を向けながら、ヨロヨロしながら「愛です!」と曰ってしまう晃一はその支離滅裂さ加減において“杉下右京”の対極にあるのですが、実は根っこの部分では右京の人間的な誠実さ、素朴な正直さに憧れる我々側(?)の視点でもあって、相棒者の(こと亀山編や米沢編がお好きであれば?)琴線にも触れるところかも知れません。(ここで晃一が突然守ろうと必死になる「柿農家の○○さん」(名前失念)は作中に登場することがないのは勿論、その後も一度も話題に上らない(晃一自身ものちに家族に「反抗の動機は話さない」と告げている)ため、観る側は一瞬『?』となるのですが、転勤で農業で暮らしを立てる人々の息吹をはじめて現実のものとして体感した晃一の本能的な共感力だったのではとあとでふと感じ、童話としてのみは描かれない“座敷ぼっこ”の背景も含めて含蓄がある部分だと思う・・・のは考えすぎなのかどうか・・・?いずれにしても、水谷氏の好演が光ります)
馴染んだ田舎を離れたくないと言い出す子どもたち、暗示される母の老いの問題(楽しかった夏祭りの帰り、ふいに妄想の世界にスライドしてしまう姑を咄嗟の判断で支えるのが嫁の史子で、晃一が一人声を殺して泣いている部分、なにか際立った描写がされるわけではないのに実感を伴って感じられる)など、何もかもがめでたしめでたしというおとぎ話ではない・・・とはいえ、“家族が一緒にいられる時間は意外と少ない”という気持ちを打ち明ける晃一に、「私たち、どこへ行ってもやっていける」と告げる史子・・・
高橋一家はこれからどうなるのか?都会へとふたたび向かう途中、立ち寄るレストランで映画は語り終えられるのですが、そこでのさりげなくもちょっぴりチャーミングなオチに思わず微笑んでしまう、奇をてらったところのない、派手なところは何一つない映画・・・エンドロールにゆったりと流れる音楽と岩手の美しい風景も含めて、休日のひとときを心地よく過ごせた映画でした(相棒ファンには、CMなどのイメージよりも、もしかすると実際に観た方が晃一パパのありように関して共感するところが多いかも知れません?!)。明日の「映画の日」は全国的に割引かと思いますので、ご予定に空きがあれば如何?

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続々・泊まり留まる停まれば・・・【“見つめる側”としての特命係が成立することの必要?】

「相棒」で劇中曲として使用された既存曲やキャスト関連の音源、相棒独自だけれど音源化されていない曲劇場版IIサントラ・・・の3つの表を更新しました。いずれも資料性も網羅性もない、というより私のシュミ関心でしか書いていないので当然の如く著しく偏っているのですが(苦笑)、そうであるからにはサイモン&ガーファンクルとPYGは記載しないわけには・・・エエ・・・
折しも今日の関東地方はグリーンスリーブスが印象深い「潜入捜査」の再放送・・・“モリモト”の死に無駄と知りながら「おれが何とかしてやるって言っただろ!」と叫ぶ《彼》の悲痛も、極限状況からの逃走を切り出す後藤を全く別の形で生き延びさせ、且つ将来に渡って束縛することになる鎌田の壮絶も(S9「暴発」)、“土方さんが逃げた”ことに他の誰よりもショックを受けながら、そうではなかった真相を右京にもたらされることによってこそ土方その人が“守る”ことになる泊の人生も(S10「守るべきもの」)、長いシリーズの縦糸となる使命をもった「特命係の二人組」の間だけでは描けない“相棒たち”の姿であって、同時に、そのありようを自らに引き付けるようにして見つめる右京(とその相棒)の描写こそが「相棒」なのかも知れないとも思う・・・
小野田というもう一つのコシの強い縦糸を失った「相棒」がどこへ行こうとしているのか、迷走の現状を脱するにはどこを目指せばいいのか、といった思いなのですが・・・
願わくば、現実にはなかなか得られない関係性への憧れであり、現実にあるものの意味を極端に純化したかたちで伝えてくれもする“相棒たち”の姿が、わかりやすさや手っ取り早さの中で忘れ去られていくことのないようにと、今後の「相棒」の未だ見ぬ道筋を漠然と祈っていたりもします。

水谷豊さんのセルフカバーは聴いて何故ミッチーくんのCDはないの!とお怒りを買うことは弊ブログの地味さからいってほぼないと思うのですが、イエ、これでも、神戸君への私内好感度が最高値を記録していた「神の憂鬱」直後はAmazonで随分試聴を物色したのでした・・・が・・・なんでしょう、私が日頃聴いているものとあまりに違うというか、ワタシが足を踏み入れるべき世界ではないのだというか(汗)水谷さんに関しても過去の歌そのままであればそれほど希求を持たなかったのではという事情もあって(「普通のラブ・ソング」など過去のものは普通の歌謡曲風に思えるのですが、新バージョンはどうしてプログレ風なんですか<そこがいい(笑)という・・・)、やはりひとえにシュミの問題に過ぎないのでした・・・でも、いつか私にも聴けるようなものがあれば聴いてみようかと思います。その前にA.R.B(三雲判事こと石橋凌氏)にチャレンジすべきなのか・・・
閑話休題、日曜夜から火曜夜に移ったBS-TBSの「Song to Soul」はやっぱり週末にまとめ見しているのですが、10日はやっとツェッペリン回の再放映だ!と喜び、続いての17日は奇しくも「アローン・アゲイン」ですか・・・あァ・・・い、イエ別に、泊(の中の人)の朗読の動画を思い出しているわけでは・・・わけでは・・・
不毛の恋を忘れようとS8-7「鶏と牛刀」をふいに見返してみようなどとしたのですが(イエ、本当は単に右京さんと焼き鳥なぞ食しながら論語に言及する官房長にお目にかかりたかっただけです)、某庁3人組の一人が土方の上司役であった俳優さんと同一であることに今更気づき、ふたたび暫くの間、一体どうすれば「鷲尾所長、泊さんからその手を放せ」と言い放てるか?と無意味な欲求に悶々とする羽目に陥ったのでした(意味不明)・・・

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続・泊まり留まる停まれば・・・【出逢い方による、こともある】

「あすなろ」やサイモン&ガーファンクルやPYGを相棒音楽の表に加筆するか、と思ってふと「サントラ未収録の音源」と「流用曲やその他の緩い関連」の整理が必要なことに気づく・・・後者は劇中に登場した流用曲や関係すると(勝手に)考えているもの・且つ基本的に自分で音源を入手してみたものだけを書いていたのですが、既存の曲である「グリーンスリーブス」や「サマータイム」もこちらの括りに入れた方が整理がいいのでしょう。他の表も加筆修正が必要ですし、ぼちぼち作業します・・・
閑話休題、と・・・泊の黒い瞳にすっかり惑わされてしまった私は、某消臭器具のCMは全く記憶になく、もしも個人的にあまり好みではない三谷作品で先にお見かけしていたとしてもほぼ間違いなくこんな風にはならなかったであろうという意味で『ツボにはまったときの「相棒」』の破壊力に改めて戦慄しているのですが、もうちょっと“中の人”のことを知りたいなと思っても本格的な演劇は敷居が高い・・・と思い悩んでおりましたら、ありました、私にも丁度いいようなものが・・・
今井朋彦氏が「わが町」という戯曲を演出された際のおまけ企画?としての音楽+朗読ということらしいのですが、ああ、こういう風貌の人が詩の朗読などなさるのはいかにもだねぇとひねくれ者の私は若干身構えつつ、お馴染みの旋律に乗せて「イマジン」(ジョン・レノン)の詞を朗読し始まったその破壊力たるや(独特の訳詞で、But I'm not the only oneが「そうかな?僕だけなのかな」になっていたりするあたりの奥ゆかしさがもう、などと思ってしまう自分自身が甚だ心配なのですが)同じサックス奏者の方とコラボレートした他の動画ではギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」もあってこちらも実に良かったです。
そして谷川俊太郎「さようなら」・・・人生を選んでいくことの痛みとも、今生の別れともとれるものが少年のような平易で素朴な語彙で足早に綴られる不思議な詩なのですが、(あまりに即物的な例えで申し訳ないのですが)あたかも、寡黙だった土方の人生を泊が代弁しているような、全く対照的に見えた彼らが根底の部分で分かち合っていた地平とはこういうことだったのではないかしらと感じてしまうような、何とも・・・文字情報だけで詩を読む習慣のない私にも、サックスとピアノの切ない調べ、今井氏の声のトーンや息づかいが感受性を手助けしてくれる、美しい動画でした。

そういえば以前、S10サントラ「OPアフロバージョン」の後半が空白なのは何故か?と書いたのですが、単に私のPCでの読み取りがおかしかったようで、大変失礼しました、修正しました・・・!!(他、「厳戒令」も音飛びして他の曲と繋がっていたようで(プログレ仕様の読み取り事故?=_=;)実は終盤が若干メタル調だったのねと今知ったのですが)現在は晴れて全曲まともに聴けるようになったのですが、このうち何曲が本編に使われていたのか、どこで使われていたのか・・・う、うーん・・・

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続・右京のいる風景

小説「杉下右京の冒険」(碇卯人氏著)を購読。三宅島噴火を題材に、大自然の猛威に翻弄されながらも自然と共に生きようとする人々の間に起きた事件を描く「紺碧の墓標」、韓国へ飛んだ右京が奇妙なUFO目撃談から近代史の暗部に起きた哀しい出来事に触れる「野鳥とUFO」の二編が収録。装丁が1冊目「杉下右京の事件簿」とかなり違う(ソフトカバーになった)のですが値段据え置きなので個人的には無問題です?!
二編とも野鳥が話題に上るのは作者の趣味興味の表れ?と同時に、「紺碧~」では人間によって取り戻しがたく失われることもあればときには人の人生、地域社会をも根こそぎ変えてしまう自然の力、「野鳥と~」では“韓流”ブームの昨今は明るく洗練された部分にばかり目を向けがちになるものの、国の分断や他国の力に翻弄されたかの国との間にある決して遠い昔ではない歴史、どちらも一見無関係な事件から始まる物語が、事件解明の過程でそれぞれ大きな背景を垣間見せていくという構造では共通しているかも知れません。
とはいえ大風呂敷に話が大きくなることはなく、あくまで“旅人”としての視野が一貫している右京の描写は好印象・・・「紺碧~」で扱われた自然災害という題材は大震災を体験した今こそ思い出す必要があるものの、次から次へと(土ワイ的に?)人や地名や事件が登場しやや読みにくかった感があるのですが、「野鳥と~」はキテレツな冒頭から意外な事件へと発展していく過程がサクサクと書き進められて、こちらのほうが個人的には「相棒」らしさが感じられ、且つ小説という媒体の利点を生かした面白さがあったように思えました。
どちらも右京の旅先相棒はガタイのいい警察官・・・冬のソウルの夕日を背景に、シルエットとなった右京と尹が会話するくだりなどはどこか“右京と薫”時代を彷彿とさせる描写、その代償というわけではないでしょうが、神戸君も電話でチラッと登場します(笑)

上記は書店に探しに行く手間を面倒がりネットで購入してしまったのですが、その際自動的にオススメされてしまったのが「夢で食えると思うなよ~役者・演芸人プロ図鑑」・・・BS11で放映されていたトーク番組をまとめた本だそうで、何故オススメされる?と思いきやその出演者の相棒成分の高さ・・・六角精児氏、川原和久氏、山西惇氏(掲載順)といったレギュラー陣に加え、せんみつこと平田満氏、イカの話他の渡辺哲氏、「命の値段」他の中原丈雄氏等々・・・というより、レギュラー、ゲスト問わず手堅い俳優陣が如何に「相棒」に出ているかというだけの話のような気がするのですが、泊こと今井朋彦氏の名を見つけ、今このときのヘンな熱のせいで(うぅ・・・)ついうっかり一緒に注文。
テレビ本ということなのか広くもサラッとという感じ、個別の俳優さんのファンや相棒者的にどうかといえば正直微妙な・・・六角氏、川原氏の章は米沢映画関連の雑誌インタビューやオフィシャルガイドブックのほうが濃かったような印象すらあり、実店舗で立ち読み確認してから決めれば良かったなと若干後悔しつつ、個人的には暇課長こと山西氏の経歴=ヒマの微塵もない会社-劇団往復生活に驚いたことと、今井氏は・・・学生生活と文学座を両立されていたとは(現在も大学講師と役者両立)研鑚を怠らない方なんだと・・・
水谷豊氏扮する右京とゲストキャラのからみも「相棒」の楽しみの一つですが、右京と泊のシーンは静かな演技が続くなかで同じ画面にいる二人の表情を追いたくなる独特の緊張感があって地味に見所を感じたのでした・・・何年か前に戦隊もので相棒オマージュ回があったというのも何かで読んで「へえー」とは思っていましたが、この人が演じたのかと思うと“左京さん”を今になって猛烈に観てみたいです(脂汗)

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泊まり留まる停まれば・・・【“イベント化する交代劇”の仁義なき客層射程外?】

新・・・というか3代目相棒(の俳優)が発表されたことへの世の中の反応はどうあれ、こんにちの「相棒」が何を描きたくて、どこへ向かいたいのか、私自身の戸惑いへの答えはその情報に見つかるはずもなく・・・もはや番組の方針を決める側の考える客層射程外なのだと諦めて視聴者入れ替え策に従うべきなのかとも思うのですが、全般に気乗りのしなかったS10にすら、栗田(櫻井氏脚本回「あすなろの唄」)や泊(ハセベ氏脚本回「守るべきもの」)といった個人的にどうにも思い入れずにいられないゲストキャラが登場したことを考えると(まぁそれは逆に言うと“相棒”の根幹であるはずの「特命係の二人組」のほうに個人的にどっぷりと浸かれなかったという事情の表れでもあるのかもしれませんが(汗))「相棒」というコンテンツとのおつきあいそのものをサッパリと辞めてしまう気にもなかなかなれない・・・
件の俳優さんがどのようなターゲット層の可能性を持つのか私にはよく解りませんし、1時間のテレビ番組たる「相棒」が若年女性層への訴求もバッチリ!な路線を歩むつもりならば、それはそれとして引き留める道理はあまたの視聴者のうちの一人にすぎない私にはないのですが、それ以外の(泣笑)客向けになにか派生していってはくれないものだろうか?・・・まァ例えば、はぐれ刑事インテリ派・右京が市井に生きる人々の心と事件を見つめる「相棒」とか、孤高のはぐれキャリア・右京が組織に挑む社会派ハードボイルド「相棒」とか、警視庁の奥に棲む謎の天才警部・右京が不可思議な事件に理論的に挑むSF短編集「相棒」とか(い、イヤ・・・いわずもがな、そのいずれもがこれまでの「相棒」にはごく当然に含まれていた要素なわけで・・・(脂汗))
「「相棒」とはかくあるべき」と、個人の好みから考えようとすると話がややこしくなるのは明らかで、もう、世の動向とは全く無関係に私一個人の願望を述べますならば・・・どっぷりと浸れる奥行きとディテールに支えられた説得力を持った「相棒」を望むもので、後退気味の現状に歯止めがかかることを望みます・・・

世の中のホットな話題と全く無関係に、視聴を続ける事自体迷いつつもS10を観て結果良かったなと思うのは19話中2話であっても(イヤ、櫻井氏脚本は「あすなろ~」以外も「逃げ水」「アンテナ」ともにいつもながらのハイレベルさを保っていたと思うのですが、「ライフライン」は全出力の85%という気持ち?)どっぷりとはまれる物語に出会えたことで・・・
全てを看破したことをつきつける右京を、瞬きもせずみつめる栗田に“愛情深く聡明だった女性の転落の悲しさ(地球人で言って(?;)女性ではないのですがアシモフ「神々自身」のパラ宇宙の恋人の側に何かを感じてしまった方にはご理解いただける?!)”をみて胸掻きむしられる想いがし、かたや“嘘であり至上の真実”をたたえた瞳で一人の男を破滅させ、且つ解放した泊にファム・ファタールのありようをみてしまった私は、こ・・・これがひとときの思い込みの恋であればその不毛さはあらゆる意味であまりあるので(意味不明)一刻も早く吹き過ぎて欲しいと身悶えしているのですが、その忘れ方が、次期S11にも更に面白い新作が登場しての自然な沈静化になるか(ただ、少なくとも亀山編での経験を鑑みるに「相棒」は数年スパンで命題が繋がっていたりしますからねえ(そこが良いのですが、小野田も世を去り、こう頻繁に交代劇があるとなると縦糸的な展開も今後は望み薄となるわけですかね・・・))、或いは「相棒」そのものに距離を置くことに付随する現象となるのかは・・・まだなんとも・・・

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ハセベ脚本の「相棒」を観る【「守るべきもの」のフィルム・ノワール×「相棒」】

民間警備会社の警護員・土方が被弾し死亡した。ヨツバ化学工業の研究者・泊の警護にあたっていた土方だったが、防犯カメラの映像には、銃声と共に泊の横を駆け抜けようとする土方の姿が残されていた。ライフルでの距離300mに及ぶ狙撃、背後からの1発目は二人の進行方向の社屋に着弾していた。
土方は警護対象を残して逃げ出したうえ、本来の標的を逸れた2発目の銃弾に不運にも打ち抜かれてしまったのか?元警察官の土方は優秀なSPだったが、ある閣僚の警護を外して欲しいと申し出たことから“臆病風に吹かれ警察を辞めた”と警察内部では囁かれていた。警察学校で土方と同期であった神戸は何故か事件が気に掛かる。
10兆円市場と言われるCO2排出権の取引、暗躍する経済ヤクザ。狙撃の“コンマ何秒”にあった真実とは?何者かの脅迫を受けていたという泊の狙撃事件をめぐる真相と、臆病者の誹りを受けたまま警察を後にした土方の真実が絡み合う形で追跡されていく「守るべきもの」(シーズン10)。脚本を手がけたハセベバクシンオー氏は、劇場版1作目の時系列とリンクするスピンオフ小説「米沢守の事件簿~幻の女房」にて「相棒」世界に初参入の後、極めて緩やかなペースでTVシリーズにも登板しており、レギュラーキャラの再現率の高さとちょっとした解釈の新味を両立させる一方で、[右京一人期]の挑戦的なトリックもの「越境捜査」(シーズン7)や、塀の“中と外”の懲りない面々を描く「仮釈放」(シーズン8)など、小粒ながらピリッと締まった独自の作風を「相棒」世界に導入しつつあります。
TVシリーズにおけるハセベ氏担当3作目にあたる本作は神戸卒業を間近に控えたシーズン10末期に属する物語。サイモン&ガーファンクルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」が鮮烈な印象を残す狙撃シーンや、土方の死の真相に能動的に関わろうとする神戸など、冒頭部の掴みには特筆すべきものがあるのですが、このシリアスな書き出しにはそぐわないとも思える中盤の方向性のばらけ(泊の研究に関するディテールの弱さ、経済ヤクザのマンガチックな演出など)が結末部の説得力も低減させてしまっている点も目につくもので、全体的な完成度としてどうか?と問われれば、亀山編からの長い歳月の中に名作を擁する「相棒」のハードボイルド系作品群に名を連ねさせるには、着想も構成も面白いにも拘わらず詰めの甘さを払拭しきれない、僅かに“惜しい”一作という位置付けになるかもしれません。
とはいえ、関心の持てない作品かと言えばむしろ逆で、SP時代の土方を知る数少ない人間であり自身も苦悩を抱える年下の元同僚・宮里、目の前で死んだ土方を「逃げた」と証言しながらも心酔した様子で彼との日々を語る泊、事件の解明を通して土方の生き様を見つめることになる神戸、こうした登場人物らへの気持ちの傾倒度合いに関して言えば、(知能犯を気取る犯人らを右京が知的にコテンパンにする様子にある種の爽快さがあった)ハセベ氏担当前2作とはまた違った側面を見せてくれるもので、「相棒」らしさを味わえたのは櫻井氏脚本回のみだったかな、とまで考えた(あくまで私個人の好悪の判断に過ぎないながら)迷走のシーズン10にあって、櫻井氏以外の脚本家担当回としては唯一、物語世界にどっぷりと浸かりたくなった特異な作品でもあります。

公から民、属する組織の質を変えながらも土方は何故再び同じような職に就いていたのか?ざっと視聴する限りでは『多くを語らぬまま命を落としてしまった男の真相が事件と共に解明されていく話』としてそれなりの出来、という評価に落ち着くようにも思えます。
しかし物語は、その優秀さ、勇敢さ故に結果的に命を落としてしまう土方が、一方では彼なりの「哲学」故にそこに至るまでの状況を自ら選び取ってくる道程を描いており、劇中にも存在するであろう第三者、或いは観客から見ての“答えの正しさ”“優秀さ”礼賛の物語ではない---土方の最後の警護対象であり、彼の運命を左右してしまったといえる泊の存在の意味を読み取ろうとしたときにこそ、「優秀な警護員だった」という形容だけでは括りきれない土方の物語が浮き彫りにされてくるように思えてなりません。
その、土方に対するもう一人の主人公・泊は、経済ヤクザを背景としたNPOの資金援助から逃れるように民間企業の研究所へと入った経緯をもつ研究者。研究がCO2排出権の先物取引を左右する要因になりうることを“脅迫の理由”として右京らに説明するのは所長の鷲尾なのですが、当の泊はといえば病室を訪れた特命係を前にどこか夢想するような応答、命がけで研究を完成させる気概を表明するでもなければ、無法者が入り込むような歪んだ市場主義に抗議の言を漏らすでもない・・・
前述したように、泊の研究についてのディテールが弱いこと[ここで目が向けられているのが技術的な話というより経済的にペイするかどうかの問題であることに気づくと、泊の描写の“行間”=良くも悪くも他者の要求を断り切れない、結果的に自らをも誤魔化しながら生き延びてきたのであろうことを解釈しやすくなるように思えるのですが、その足場となるべき“元々は特殊環境下での利用を目的としていた研究だった”という描写がそもそも鷲尾のセリフ一つと僅かに映り込む持ち道具のほんの一瞬にしか存在しない]、企業やNPOを隠れ蓑にする経済ヤクザといった現代的な問題が描かれながらも全般にマンガチックに処理されることなどが、泊の抱える事情のみならず、ラストのどんでん返しの説得力をも弱くしている感は否めません。
そして、終盤に言及されるもう一つの大きな謎=[土方にとって泊とは何者だったのか]について考えるチャンスを観客から遠ざけてしまっているのが非常に勿体ないと感じるのですが・・・
逆に言えば、二人のキャラクターを“勇気のあった土方/なかった泊”という物語上の対比としてのみ捉えた場合はそれなりの話、別の何かを感じてしまった観客には掘り下げる(勝手に!)楽しみに事欠かない話と言うことになるのかも知れません。(少なくともハセベ氏は後者の観客のツボに何がはまるかを簡潔且つ的確に盛りこんでいて、それだけに、ハセベ氏の御尊父にして、「相棒」における社会派ハードボイルドの名作「警官殺し」「裏切者」(シーズン3、シーズン5、櫻井氏脚本)、帰属社会の枠組みを渡っていかなければならない男たちの姿をニヒルに描く「ピルイーター」(シーズン2、輿水氏脚本)などを手がけた故・長谷部監督による演出がもし実現していたなら、と考えずにいられないのですが・・・)
演出は近藤監督。近年作のうちハードなタッチのものとしては、組織の危機管理という題材に恋愛要素をからめた「SPY」、男同士の熾烈なドラマを通して法と捜査側の自己矛盾に厳しい視線を投げかける「暴発」(シーズン8、シーズン9、櫻井氏脚本)が記憶に新しいのですが、本作「守るべきもの」でも画面のそこここに《その種のツボにはまりたい観客のための》狙いが仕掛けられています。
ギリギリまで抑えた彩度(車や登場人物らの服装は一部にベージュや紺はあるもののほぼ無彩色に統一されている)の中に“危険”のサインを送る泊のマフラーの赤。職を辞した土方の真相を宮里が語る公園のシーン、男たちの流さぬ涙の代償のように降り出す雨。ほぼ全編に渡り小さなルームミラー越しにのみ合わせられる視線が、顕在的に描かれない部分の濃密さをも物語る土方と泊の関係性。
泊に扮する今井朋彦氏がみせるのは、真相を巡り観客を翻弄するアルカイック・スマイルとも気弱な愛想笑いともとれる微笑、取り繕う物腰の奥に時折何かを強く発する黒い瞳。
その蠱惑的な瞬きに土方は捉えられてしまったのか?などとおかしな心配をしている時点で一視聴者としても泊の罠にかかってしまう奇妙な不安と快感を味わうのですが、土方役の合田雅吏氏もまた甘いマスクとスタイルの良さに頼らない(?)所作の美しさが寡黙で男らしい人物像をみせ、日常とは異なるロマンの世界に観る者を浸らせてくれます。
そう、これは「相棒」におけるハードボイルド、それもフィルム・ノワールの部類ではないのか?「サウンド・オブ・サイレンス」の切なく訴えかけるメロディが逆に切迫感を増す冒頭、絶命する土方の血飛沫を浴びるほど至近距離にいた泊の、愕然とした表情を捉えるショッキングなシーンから、帰納法的に二人の関係が語り出されることになります。

ところで、たった一人で警護を続ける土方が、泊を隠す場所として選んだのがホテル「アヴェニール」(当初の宿泊先という「南急ガーデン」は「相棒」シリーズ初期からの作中設定の一つである「南急百貨店」(S1-4他)の踏襲と思われ、泊の勤務先である「ヨツバ化学工業」も「ヨツバ電器」(S4-6)に同様か)。物語の過程で上司の裏切りにあっていたことが判明する土方が、むしろそのこととは直接関係のない理由、《泊の願いを叶えるために》最後の朝に自ら社章を外していた経緯が語られるのですが、それは彼自身の哲学故に華々しい人生コースは歩くことのなかった土方が、自分にとっての価値をさほど見いだせなかったさまざまな枠組み[帰属社会/組織、地位、常識]からついに解き放たれていくことへのメタファーでもあったかも知れません。
Avenir、仏語で「未来」。信頼関係で固く結ばれた対象を只一人で守り抜くという、自らが望んだ生き方への最大の理由を与えたファム・ファタール、泊との間に、土方は見果てぬ“未来”を見ようとしていたのか?
土方の警護員としての優秀さを知ればこそ、人は言うかも知れない、馬鹿げた選択だったと・・・警察を辞めることも、泊のような人間のために命を落とす理由も無かったはずだ。更に厳しい人ならこう評価するかも知れない、希望の部署に配属されながら「自分はSPに向いていない」とこぼして神戸に笑われ、民間に移った後も顧客を選んでいた土方こそが実は人生を見定められなかった人間であり、その彼が泊によって破滅していくのもまたなるべくして迎えた結果であると・・・
それでも多かれ少なかれ人は皆、世界の理不尽さの中で自らを誤魔化しながら生き延びているという点で[泊的]であり、同時に、自分らしくあることに意味を与えてくれる何かを求め続けている点で[土方的]でもあるのではないか---泊は“極端に弱腰な土方”であったからこそ、普通の社会ではともすれば理解されにくい土方を信頼し、“真実”を伝えることができたのではないか?土方は“極端に勇敢な泊”であったからこそ、誤魔化しの壁に身を隠そうとする泊の本当の姿を見つけ、自分の側に引き寄せることができたのではないか?
終盤、死んだ土方を忘れようとするかのように、別の誰かに言われるまま、状況になされるがままの人生に戻ろうとする泊に対し、狙撃の瞬間に土方が“逃げた”のではないこと、彼の想いがただ泊を守ることにのみ向けられていた[真実]を証明するハードボイルド世界の異邦人・杉下右京がそこにはいて、知らされたからこそ自らの不誠実を深く悔い、自分の意志で事件の真相を語り始める泊が描かれる---
ハードボイルドのフォーマットを魅力的に用いながらも、いかにもな(ハードボイルドのもう一つの特徴とも思える自己陶酔的な)虚無主義には終わらせない右京の存在こそが「相棒」らしさだと改めて感じさせる終盤のシーン、強い風の中、去っていく男たちの長い影を特命係が見送る深い哀愁が余韻を残します。(それぞれの表情がじっくりと追われる良いシーンだけに、一部のカットがそれほどの人数を詰め込まなくとも!と思ってしまう点や(決して意味のない詰め込みではないのですがなにぶん多すぎる)、この後に続く二代目女将の花の里でのまとめラストはむしろ蛇足であったのでは・・・と感じてしまうのがまた、本作の僅かに惜しいところなのですが・・・)
観る者を酔わせるエンタテイメント性の一方で、“信頼関係を求めて”警察を辞め、警備会社からも精神的に浮遊していた土方の姿は、「相棒」の長いシリーズ中で櫻井氏が繰り返し問い続けてきた命題=「(国家権力としての)警察と(守られる側としての)国民の間の信頼関係」の難しさを別の側面から見つめる試みとしても興味をひくもので、サバサバとした語り口や小味の効いた銃にまつわる謎解き共々、ハセベ氏の「相棒」での今後の執筆を期待したくなります(この点、ファンタジー味と映画連動の企画色が強かったスピンオフ小説1作目に対し、同じく米沢を主人公とした2作目「知りすぎていた女」は警察小説の色あいが強められており、相変わらず飄々とした米沢と終盤にこの上なく渋い登場をする大河内というある意味レアなコンビ(櫻井氏が脚本を手がけた映画版「米沢守の事件簿」からのフィードバック?))を読めるという部分でも、私を含むある種の客層(?;)にはお勧めかもしれません)。
また、あまりにも印象的に用いられる楽曲「サウンド・オブ・サイレンス」・・・初見時には、冒頭シーンに強い衝撃を受けながらも、この名曲が事件の動機や結末なりに深く関わらずに用いられるほうが不可解だ、とまで悩んでしまったのですが、やはりこの曲が作品全体のイメージを牽引していることは間違いなく、DVD化の際は恐らく差し替えられてしまうであろうだけに、是非ともオンエア版の一見をお勧めしたいところです。

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生まれた場所を遠く離れて【ビフォー・アフター神戸尊?】

「念のために伺います。確かにあなたは今夜、北条氏を殺すつもりでしたか。或いは真相を知るために脅しただけとも言える。そのあたりがまだ判然としません」
「勿論。殺そうと思っていましたよ」
「そうですか・・・」
「しかしね、杉下さん。あなたの前で人殺しはできない」
「・・・ありがとう」
  (シーズン1最終話「特命係、最後の事件」)

先日放映終了したS10最終話には、生まれてくる罪のない子どもの将来を慮るあまりに神戸が“真実を公表するなら自分が今から胎児を始末する”と右京に迫るくだりが描かれる・・・これは一見、「人の命より価値のあるものなどない」と常に述べ、まだ同時に常に真実を追い続けもする右京に“究極の選択”を迫っているかに見えるのですが、10年の歳月の中で遭遇したさまざまな事件への右京の反応を思い返す限り、この問いは右京にとってさほど意味はない・・・というと些か語弊があるですが、実はこの局面での答えを出すに右京はそれほど迷いはしなかっただろうという気がするのですね・・・
というのは、右京は人が人の命を奪おうとすることを全力で阻止しようとしますし(それは善人はもとより、例え既に殺人を重ねている凶悪な犯人に対してでも同様である)、未来が現在と同一であるとは考えていない---現在はさまざまな困難を抱えたとしても、将来その状況が変わらない、変えられないとはいえない、その可能性を信じようとする姿は、柔らかなところでは「同時多発誘拐」や「氷女」、よりシビアなところでは「切られたしっぽもまた生えてくればいい」の「下着泥棒と生きていた死体」、時効を巡る問題提起の「ありふれた殺人」、捜査側の抱える自己矛盾と法の不整備を描く「暴発」など幾つもの作品に描かれています(そして実際、「ありふれた~」で描かれた困難な状況は数年の時を経て現実に変化しはじめたのですが・・・)
右京は間違いなく、神戸がその脅し文句を実行するとは考えなかったでしょうし(もしその可能性を考慮に入れなければならないような相手であったら「きみは存外狡いですね」などと悠長に話していることは無かったでしょう)、あの局面で右京が何かに気づき心を痛めているとしたら、それは「今俺に話しかけないで」とまで冷静さを失い、捨て身の暴挙で自分に食ってかかってきた神戸の胸の内についてに他ならなかったのではないか・・・そういう意味では(それが書き手の意図したところかどうかは別として)印象深くもあり、その一方で右京を揺さぶることになった過去の幾つかの局面にはボルテージとして迫らなかったのかも知れないな・・・とも感じたシーンでした。
もう一つ、個人的には劇場版II近辺(?)での“絶対的/相対的正義”“矜持”という言葉に定義主義な違和感を禁じ得なかったのですが、この最終話で神戸が苦悩の内に口にした“杉下さんが大切にしているもの”という表現は、より神戸が自らの言葉で話している感じがして、よかったと思います。(実は1つ前の話「守るべきもの」に土方の生き方を語る宮里が述べる言葉として1度だけ登場した“哲学”という表現にも非常に感ずるものがあり、よいと思っていたのでした・・・そちらの話はまた稿を改めて・・・)
ストーリー自体の完成度や題材(ヒトクローンの問題)の扱い方としてはCM抜きで1:45あまりを費やして何が訴えられたのかについて首を捻らざるを得ない・・・というのが正直なところなのですが;、神戸がどこから来て、どこへ行くのか、《観るもの思いを馳せさせる》という意味では、神戸卒業の物語として一定の機能を果たしたのかな、とも感じています。

冒頭に挙げたのは同じ脚本家によるシーズン1最終話、終盤、哀愁を帯びた初期からの定番BGM「追憶」も象徴的な犯人と右京の対話。
“人材の墓場”と呼ばれながら黙してその仕打ちを受け容れ続けた右京の真実と、背負う過去が描かれる「右京撃たれる~特命係15年目の真実/特命係、最後の事件」は全シーズンを通しても重要なエピソードだと思うのですが、こと印象深いのが、15年の歳月を経てようやく閉じられていく右京の人生の因果の輪---人が人を殺す局面に声なき叫びを上げていた若き日の右京のことを、誰もが解ってやれたわけではない、それでも“緊急対策特命係”の一員として死地を生き延びたごく僅かな者は理解していて、むしろ右京を自分たちの命の側にある存在と感じていたということ---
このシナリオが読みたいばかりに掲載雑誌を買って、屈指の胸打たれるセリフとも言える「ありがとう」の部分がシナリオ段階にはなかったことに驚いたものですが、同時に掲載されていた「レベル4」(シーズン7)についても、薫の卒業を人々に印象づけた名台詞「何年あの人の相棒やってると思うんですか」がシナリオ段階にはなかったことを知る・・・亀山編の“終わりの始まり”ともいえるこの2エピソードとも、脚本のみならず現場で作られた部分の大きさを改めて感じます。
S10に話を戻すとして、個人的な嗜好として大変好きな話はあったものの(まあ、再三述べている「あすなろの唄」「守るべきもの」なのですが(笑))それに尽きてしまったというか・・・過去キャラを出しても過去シリーズとの接続感がない、目的化する二転三転と題材など、全体としてはまれに見る迷走ぶりだったというのが率直な感想なのですが、それでもなお長所を捜すとすれば、S9後半(劇場版II含む)~S10第1話の段階では迷走していた大河内の方向性がS10折り返し~最終話で元の路線に若干修正されたと見られること(「ピエロ」は亀山編からのファンとしては色々と「?」な感もないではなかったのですが、これが“神戸編的”なあり方なのかなと考えるとそれはそれで理解できる)、神戸の退場が再び組織に取り込まれていく形で描かれながらも、3年前とは異なるものを内に秘めることになったであろうと予感させることは、そんな中だからこそ評価すべき部分なのかもしれません。
「相棒」に関心の無かった層への訴求が主たる使命であったとみられる神戸が、ああいう顛末を迎えたのは皮肉と見るべきなのか、或いは、やって来た場所(組織)に戻ったときこそ、もう同じ轍は踏まないであろう、右京の傍で過ごした日々によっての彼の成長がわかるだろう、という暗示なのか・・・(ここが重要で、万が一にも次シーズン以降の方向性として長谷川が物語上で小野田の後継キャラのように扱われ、神戸も元の場所に戻ったなりに内面的にも元に戻ってしまったりしたならそのときは逆に甚だガッカリとしか言いようがない・・・のは私だけなのか・・・)
いずれにしても、“みんなの神戸君”であった故に「(亀山編に対する)新・相棒」迷走の発端ともなったであろう神戸が、最終的にはそこから自らの足で脱却し、誰も知らぬ地平へ歩き出したと予感させることには一つの意義があったのではないか、というのが現時点での感想です。

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新しい日

相棒シーズン10第19話「罪と罰」を見ました。“バイオテクノロジー研究所の嘉神博士が人クローン胚を娘・茜の胎内に移植した”との告発文書が文科省に届いた。嘉神はその内容が事実であることをあっさりと認めるが、それは対処が出来ないであろう事態を見越してのことで、彼女の思惑通り政府は情報の管理を始める。クローンの核は幼くして死んだ茜の息子のそれであり、胎児は既に24週を迎えていた。
告発文を匿名で送ったのは茜の兄・隼人だった。信仰心から人クローンに反対していた隼人は公園でおもむろにその内容を訴え始めたことから茜と対立し、殺害されてしまう。嘉神は茜と胎児を庇うため“不倫関係にある男の子を身籠もった茜を隼人が罵倒し、母親である自分がかっとなり殺した”という筋書きで自らが自首をするのだが・・・
混乱と迷走のS10は、最終話もまた混乱と迷走の・・・うーん・・・うーん・・・(汗)私は真野あずささんがわりと好きなので、真野響子さんも姉妹だけあり面立ちが似ていらっしゃいますねと思いながら観ておりました(そこですか)・・・
端的には、愛する人々を失い自暴自棄の娘に「命を粗末にしないで」と真剣に怒っていた母親が、命を繋ごうと持てる技術を用いたことから手段を目的へと変容させ、やがていつか、命をもてあそんでしまっていたのが自らに他ならないことに涙する・・・という嘉神博士の顛末には関心を持てましたし(この、クローン云々の側の物語は脚本やディテール以前に(というかそもそも恐らくそこは追求していない)ほぼ嘉神こと真野さんと、向き合う右京に扮する水谷さんの存在によって画面の側で維持されていた感・・・)、胎児に罪はないことに胸を痛めるあまりある破れかぶれの取引を右京に迫ることになる神戸も、かねがね“大多数側の最大公約数”的スタンスであった彼にしては男気のあるところを見せるのであった・・・が・・・物語のトータルとしては・・・結局何を訴えようとした物語だったのだろうというか、2時間あまりを埋めるにはあまりに・・・うん・・・とにかく行を埋めましたなあというのが現時点でのぼんやりとした感想です・・・倫理的な問いかけをしようとしているのだとすると、些か説得力に困難を抱えてしまったなあと言う印象・・・神戸君自宅が彼に相応しく大変オシャレであることが判明したのはファンサービスかな?^^;
とはいえ別れのシーンはなかなか見せるもので、終盤、“杉下さんの大切にしているもの”を自分に対する思いと天秤にかけさせてしまったことに苦悩する姿が描かれながらも、背後で暗躍していた長谷川の手によって、再び予定調和側の、組織の側へと取り込まれていく姿が描かれる・・・しかしそれは“戻った”のでなく、組織の側から右京の元に送り込まれた3年前とは全く異なる内面での、まだ誰も知らない、“新しい神戸”の姿だったと思いたい---
「またいつか。どこかで」
神戸君、及川氏、大変お疲れさまでした。

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