過ぎ去るものの観測【ある戯曲と、迷走するS10からの二つの例外】
ハヤカワ演劇文庫の中の1冊、マイケル・フレインの戯曲「コペンハーゲン」を読みました。第二次世界大戦終盤の原爆開発を巡る物理学者師弟の攻防、日本でも2001年に初公演されて評判だったそうで、不確定性原理のハイゼンベルグを演じたのが、S10-18「守るべきもの」泊真一役で目にして以来私がヘンに気になる今井朋彦氏だと知ったからという至って浅はかな個人的購読動機(・・・)なのですが・・・この本自体がとても面白かった!
「どうして彼はコペンハーゲンに来たの?」ニルス・ボーアとマルグレーテの夫妻が振り返りながら語らうくだりから始まる、ボーアのかつての愛弟子であり、やがて敵国の人間となったハイゼンベルグの、戦時下である1941年の謎の訪問・・・マルグレーテは腹を立てているようで、ボーアは「彼自身、分かっていたかどうか」という。ハイゼンベルグもまた回想する、コペンハーゲン行きについては誰も理解していないと・・・「説明すればするほど曖昧に---不確定性が深まっていった。だが、私としても、もう一度試せるならありがたい。今ではもう、みんな死んだのだから。誰も傷つかないし、誰も裏切ることはない」。
窮状にあるかつての師を、国の力を利用してでも助けたかったのか?敵国の原爆開発状況を探ろうとするスパイ行為だったのか?これから自分がしてしまうかも知れないことへの赦免と理解を請いたかったのか?それとも・・・たった3人の登場人物の誰もが既にこの世にいないことを前提に(!)あたかも実験のように再現されようとする、ハイゼンベルグが、ボーアが、あのとき何を話して、何を話さなかったのか、何を求めて、何を拒絶しようとしていたのかの謎・・・ボーアとハイゼンベルグの対話が熱を帯びるにつれ、核物理学の用語や同時代に活躍していた物理学者たちの名前が飛び交い(分かったのはシュレディンガーの他にはジョージ・ガモフだけでした・・・「不思議宇宙のトムキンス」作者としての!)、複雑な歴史的背景として考慮しなければならない戦争の影にあっという間に埋め尽くされてきて焦るのですが、それでも「マルグレーテのために」「普通の言葉で」自分たちに何があったかを“互いに”明らかにしようとする彼らの対峙に否応なく引き込まれていきます。
彼ら自身の人生とその中で見いだされた物理学の理論が重ね合わせられていく普遍的な希求、国を愛する気持ちと倫理観、科学の探求心との間でせめぎ合う駆け引き。“国民のための”原子炉開発がプルトニウム生産という国家の見えない悪意へと繋がらない保障はないこと、一握りの科学者たちに国家の原爆開発の意志を食い止める手だてはあったのか?
ボーアとハイゼンベルグを結びつける父と息子のような深い愛情と反発心、「あなたたち二人は、離れている方がずっと上手くいくのよ」と指摘するマルグレーテ・・・冒頭、ボーア夫妻がハイゼンベルグを思い出す部分(ボーア「あのキラキラと光る鋭い目。」マルグレーテ「光りすぎてて、鋭すぎる目。」)からして実に、今井氏が扮している様子を見てみたかったと内心眩暈がするわけですが(汗)、物語中必死に弁明し、すがろうとし、反抗し、理解を請いながら自らも混乱しているハイゼンベルグは天才ならではの苦悩に満ちながらも実は誰にもどこか気持ちが分かるような、人間的な描かれ方・・・(先述したように時折難しい単語が続出して焦るのですが、セリフそのものはもってまわったような気取りは全くなく、実直なのです)
私は演劇というものに全く疎く(ハヤカワといえばSF・ミステリのイメージばかりで「演劇文庫」なるものが出ていたなどとは初めて知りました)思いがけず未知の面白い本を手にすることが出来たな~という思いと同時に、さ・・・再演などされたら(2007年にあったそうですが)もしやうっかり必死に見に行ってしまいそうだと思ってしまう自分にも驚きつつ・・・物語の最後の最後の部分、諸行無常とも、一人の人間がその人生の内に知覚できるスパンを越えた部分にようやく見いだされる最終的な希望ともとれるハイゼンベルグのモノローグが、どんな風に語られるのかなと、しばらく考え込んでしまいました。
ハイゼンベルグは原爆開発を“阻止”したのか、“出来なかった”のか?ということについてのちの人々が調査し、解釈したさまざまな考え方が集約されている作者あとがきもとても興味深く、相棒者的な言葉で賞賛するならば(?;)名探偵・杉下右京がこのあとがき部分を理路整然と、しかし真実追究への思い入れたっぷりのいつものあの調子で我々に披露してくれる様子を思い浮かべても違和感はないと思ってしまうのですが・・・
そしてふと思い出すのは、(そもそもこの「コペンハーゲン」を手にしようと思った動機であるところの)泊・・・もとい「相棒」S10-18「守るべきもの」の面白さと詰めの甘さ・・・もし、ハセベ氏特有の着想に、櫻井氏的な綿密な調査、取材力の裏付けがあったなら?長谷部監督がご存命だったなら?描写の比重がもう少しでも泊に割かれていたなら?物語中に目を向けるなら、かつて暴力団と関連のある組織から援助を受けてしまったことを泊は本当に知らなかったのか?(劇中では「距離を置こうと思った」とだけ述べている)知らなかったのだとしたら、折角逃れたそこから、別の悪意のなかに何故自ら飛び込んでしまったのか?誰も信じられなくなっていた=誰にも自らの真実を打ち明けられなくなっていた泊が、土方との間に直観的にみた世界は何だったのか?
突き詰められたならさぞ大化けした1篇であったろうにと、(これまでのシーズンに対する)S9での幾つかの兆候~S10そのもののパワーダウンと安易な方角への流れへの危惧があるのですが、他方、新たに気づいた謎?は、何故泊が、よりによって今井氏という、あまりに印象深い物質的存在をもって表現されることになったのかということ・・・
ハセベ氏は「書くときに俳優さんをイメージすることはない」そうですが(米沢映画関連のインタビュー記事より)、ハセベ氏やスタッフの側にはたして戯曲「コペンハーゲン」は頭にあったのか、なかったのか?(キャラクターとしては、どこかフワフワとした泊とシャープなハイゼンベルグ、全く異なるタイプではあるのですが)それとも、台本の段階では平板な輪郭であった(見ようによっては単に流されるだけの、情けない男に過ぎないかも知れない)泊というキャラクターに、如何なる運命の幸運か今井氏が入ったことによってこそ、あの何とも言えない・・・あれこれ思いを巡らさずにいられない複雑な造形が生まれたのか?
「相棒」一視聴者に過ぎない身にはただ想像するしかないのですが、1冊の本と1篇のドラマでこうもトリップできる自分はもしかすると(もしかしなくても)相当シアワセな部類ではと若干呆れつつ、例えば、“真実は心の中に”という「相棒」の有するある側面(S2「殺してくれとアイツは言った」「ピルイーター」、S7「希望の終盤」等)とも、同胞を愛する心やそのための科学技術が、権力(国家、経済)と時に不本意な形で関わり合ってしまうのは決して他人事ではないと指摘する幾つかの話(S6「正義の翼」S10「あすなろの唄」等)とも、どこか通ずる要素があるのではないか・・・という意味で、相棒ファンとしても色々と考えさせられた「コペンハーゲン」でした。
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